今日は観世流梅若のお能の稽古に行った。
西王母、老松、猩々という謡と舞を練習した。
西王母は「心を癒し、安らぎの世界に導く曲」と言われるそうだ。
能の中でも、「ありがたや」という言葉で始まる珍しい曲で、この世に素晴らしい平和な世が実現したので、それを寿ぐために三千年に一度しか咲かない桃の花の実を「西王母」という天女が捧げに来るというものだそうだ。
先生曰く、もともと能楽は世阿弥が「寿福増長」という、あらゆる人々の幸せと健康を願って大成したものであり、西王母はまさにこの寿福増長を実感できる曲だという。
腹から声を出して、謡をしていると、自然と心が落ち着き、呼吸も安定し、深い長い息ができるようになる。普段、仕事や考え事をしてストレスを感じていると、浅く短い呼吸になり、だんだんと心も不安定になり、ちょっとしたことでもストレスを受けて受け流せなくなったり、動揺したり、考えもまとまらなくなったり、集中できなくなったり、ひどい時はミスをしたり、気分が落ち込んだりする。
しかし、声を出し、息、一足一足の動きに集中すると、自ずと心も身体もスッキリし、インナーマッスルが鍛えられていく。
戦国時代には、能は武士の必須徳目としてお茶とともに重要視されていたとされる。信長も能をこよなく愛していたという。それは能が精神安定、健康に叶うからではないだろうか。
能もお茶も、武士でさえも、伝統は単に形式化、形骸化したものを引き継いでいくことが重要なのではなく、人や自然の健康的な状態、末永い平和な世を求めて祈ることがそもそもの始まりだったのではないかと改めて思った。
伝統文化を語る時に、とかく高価な物や歴史的価値のあるものを出してきて、自慢げにその知識や物について話す場合や、ある時代に定められた礼儀作法に固執し、それから少しでも外れれば間違いだとされる場合もあるかもしれないが、伝統の本質とは、いかに人が周囲の人や社会環境や自然など、目に観えるもの、観えないものを含めて、身の回りの存在との調和、そして、最も求めているものは自己と調和にあるのではないだろうか。自然(周囲の環境)、心、身体が一つになった時に、自我を超えた力を出すことができる。それは武道でも能でもお茶でも仕事でも趣味でも同じだろう。
伝統は人と自然の健康に大いに役に立つのではないかと思う。コロナウィルスも含めて、混沌とした時代の中で、伝統の真意に学ぶことで、そこから今求められている未来をつくっていける可能性があると思う。現代に生かしてこそ、伝統は伝統になっていく。本質を見失わずに、常にその時代の環境にあわせてアップデートしていくことで。
それは建築や都市にも通じることで、もともと建築も都市も自然を破壊せずに、いかに自然の資源を得ながら、その循環を止めずに逆につくり出し、自然に対してマイナスではなく、逆にプラスにしながら人の生活にも利益になるものを先人はつくってきた。単に伝統建築のそのものをそのままその智慧に学び、生かせるものは生かしてこれからの建築や都市をデザインしていきたい。
能のもとになる申楽はもともと飛鳥時代に聖徳太子のブレーンをしていた秦河勝が日本に広めたとされる。秦氏は平安京造営にも深く関わっている。その平安京造営もまた、自然の力で最終的に土に還るものだった。それはまた次の機会に。