藤原京跡(A.D. 694-710)
それは唐の都をモデルに、飛鳥時代(A.D. 592-710)の末期に造営された本格的な条坊制の巨大都市でした。
白村江の戦い(A.D. 663)で大敗を喫した日本は唐に対等に独立を宣言する必要があり、自らの歴史やアイデンティティを国内外に伝えるために古事記や日本書紀などの歴史書を編纂し、古来からの神道と大陸から導入した仏教という二軸の信仰、唐にならった法律(大宝律令)、時計、戸籍など、天皇を中心とした国の体制を整えていきます。その中の重要なものが巨大な都の造営でした。それまでの時代は、天皇の代が代わるごとに宮殿を移していたので都というものはなく、山間地域の飛鳥という場所もあり、建築物が点在するような形でした。しかし、唐に対抗するには最先端の知識や技術を導入した巨大な都の造営が必要でした。この藤原京は後につくられた平城京、平安京などよりも大きく、古代日本最大の都でした。
しかし、排水の問題や疫病、政治上の問題などが重なり、藤原京は16年でその役目を終え、平城京に遷都されます(A.D. 710)。藤原京の多くの建物は解体され、使える部材は平城京造営のために再利用され、1934年に藤原京の遺構が発見されるまで田畑になり、都は土に還っていました。
平安京は桂川一本で木材や食糧などを山国地域という桂川の上流地域から輸送することができましたが、藤原京造営時にはそれまでに都や寺院の建設などで奈良盆地周辺では、大量の木材が伐採されており、飛鳥周辺には使うことができる木材が枯渇し、今の滋賀県にある田上山から木材が調達され、宇治川、木津川、佐保川、飛鳥川を使い(途中陸送あり)運ばれました。
その都や国づくりには、百済から来た渡来人の知識や技術が大きな役割を果たしました。かつて天皇の内裏や中央政治機関などが置かれた藤井ヶ原という土地には藤が咲き乱れ、百済から来た渡来人が住んでいました。その近くには日本の中で当時最大級の国立寺院である百済寺(後の大官大寺)も建てられました。
大宝律令とこの藤原京が完成したことで、日本はそれまでの「倭」という名を改め、はじめて「日本」と国号を定めました。ここは、日本のはじまりの場所でもあるのです。