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traditional urban development

traditional land development

Asuka, which had created the foundations of Japan

奈良県明日香村。   ここはかつて、都が置かれ、日本の中心だった場所。今では田畑や飛鳥時代(A.D. 592-710)から続く神社、寺院、遺跡が残る農村の景色が広がっていて、心癒される場所でもあります。   飛鳥時代の中頃、日本では大化の改新が始まる乙巳の変(A.D. 645)が起き、天皇を中心とした国づくりが行われて行きます。そして、古くからの友好国であった朝鮮半島の百済は660年に唐に侵攻を受け滅び、663年に百済の復興軍に協力した日本の連合軍と唐と新羅の連合軍が戦い、日本と百済が敗北し、百済から遺民が日本へ大勢やってきました。それまで、百済からは仏教や様々な技術を導入していた日本は、これを契機に唐とも対等に交流のできる独立国として、自らの歴史やアイデンティティを国内外に伝えるために古事記や日本書紀などの歴史書を編纂し、古来からの神道と大陸から導入した仏教という二軸の信仰、唐にならった法律(大宝律令)、大規模な都(藤原京)、時計、戸籍など、天皇を中心とした国の体制を整えていきます。   その国の基礎づくりは奈良時代まで続きます。当時、日本には中東、中央アジア、東アジア、様々な国や地域から人々が訪れ、文化や技術を伝え、ある者は日本に残り、国づくりや文化、宗教にも反映されていました。そうした国のベースは今日まで続きます。   縄文時代から続く精神性や文化をベースに、様々な時代に様々な文化や技術を海外から導入し、それらを融合させて国づくりや文化を育んできた日本。今では天皇家は現存する世界最古の王族でもあります。世界最古の企業や300年以上続く企業も多く存在します。長く続けるということが日本の特徴でもあると言えます。しかし、第二次世界大戦後、一部では日本は日本らしさを失ってしまったように思えます。日本は世界の枠組みを理解しつつも、縄文時代から続く、持続可能な社会づくりの蓄積や智慧を世界に発信していくことが大切なのではないかと思います。気候変動や戦争、環境問題、食糧問題、水問題など、グローバルな課題に対しても世界のためになることを率先してやることができる国でもあるのではないか、それが国の豊かさにもつながるのではないかと考えています。                

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land planning

Architecture, City and Civil Engineer That Coexist with Nature

2020年時点の記事です。内容は一部変化している可能性があります。   2020年1月、京都の里山である山国の農家民宿「ほろろん」に滞在していた時、北陸新幹線が京都を通り、新大阪まで延伸されるという計画を地元の人からシェアしてもらいました。最初はそんなに深刻に受け止めていませんでしたが、どんな影響がその地に起きるのか詳しい人に聴いていくと、大きな問題が起こる可能性があることが分かりました。   茅葺屋根、自然と共生した建築の研究をしようと山国に来ていましたが、まさにその「自然との共生」を真っ向から崩すような計画で、深い歴史と伝統、里山の豊かな自然環境が残るこの山国の景観や生態系が破壊される可能性があると分かった時、何か自分にできることはと無我夢中になって情報収集を行い、気づいたら来てから2週間も経っていないのに地域住民に対して情報共有会も開催していました。今思っても不思議なことが重なり、突き動かされていたように思います。   それも、自分の先祖が平安京造営に関わっていたからかもしれません。もしかすると山国にも来ていたのかもしれません。その頃の都市計画、建築は、身近で採れる自然の材料を使い、伝統構法を使いよくつくられたものは数百年から千年以上もち、最終的には土に還る、茅葺屋根に至っては田んぼ畑の肥料にもなる、カーボンニュートラルどころか、カーボンマイナスに働いている、しかも、土壌の中の水や空気の流れをよくするような土木技術も使われていたり、容易に解体、移築も可能で、今で言うとサスティナブルな建築、都市、土木のあり方であったこと、それに対して、現代の建築や都市計画、土木は遠くで、地球を痛めながら採掘される材料や化学的に合成された材料を工場で大量のエネルギーをかけて建築材料にし、大量のエネルギーをかけてその国に運ばれ、建設する場所も地面を掘り、コンクリートで固め、大地が呼吸できないようにし、水や空気の流れも悪くなり、コンクリート建築にしてもハウスメーカーの住宅にしても、現代建築の多くは数十年からもっても100年ほどの寿命しかなく、最終的に巨大な廃棄物となってしまうという、自然を破壊することで成り立っている部分が多く、長年疑問をもっていました。自分が設計することで、一時人に喜んでもらいながら使ってもらうことができる建築ができたとしても、数十年経てば大量の廃棄物が生まれてしまうのではないかと・・・   北陸新幹線に関しても同じで、新幹線という移動の手段がもう既に時代遅れになりつつある今、建設後、あと何年使われるかもしれず、その時に自然環境を痛め、生態系を崩し、負の遺産として放棄あるいは解体された時、どうなるのだろうと思います。終わりのことを考えずに建築や都市、土木をつくってきてしまったのではないかと。   今回の北陸新幹線の計画で京都を縦断すると、茅葺屋根の古民家が点在する日本の原風景のような里山の景観が壊れる、工事中も一日200から300台くらいのダンプカーが里山の狭い道を往来し、粉塵をまき散らし、トンネルを掘った土をその自治体で処分しなくてはならず、行き場を失った土砂が不法投棄されたり山に仮置き場が作られて森が死んでしまったり、土砂から有害物質が出てきたり、水脈が変わってしまって今まで使えていた井戸水が使えなくなってしまったり、水質が悪化してしまって魚が住めなくなったり、いろんな影響が出ることが予想されています。開通した後も、騒音問題、振動問題、里山の景観が壊れ観光客が減ってしまうかもしれない問題、既存路線が第3セクターになり本数が減ったりとかえって住民にとっては不便になってしまう問題などいろんな問題が続きます。通過するだけの地元は国に従いお金を出し、環境は破壊され、地元の業者も儲かるわけではなく、メリットというメリットはないということです。住民に対する説明も十分にされず、計画は進み、現在、環境に与える影響の調査を始める段階のようですが、調査が終わるころにはほぼルートが決まり、そのころに意見を出しても聞き入れてもらえないところまで来ているそうです。戦時中の弾丸列車か、と思わせるようなシステムが国に残ってるように感じました。京都市内も大深度でトンネルで通すので、地権者の了承なく工事が進められるそうです。しかし、京都の地下には琵琶湖の水量に匹敵する水がめがあり、千何百年もの間、豊かな食文化やお茶、お花、着物、酒、庭など日本の伝統文化を支えてきた歴史があります。僕も京都に住んでいたころは生活でもお茶の稽古でも井戸水を使っていました。それくらい井戸水は京都に住む人にとっては身近な存在だと思いますが、それが万が一水質が変わって使えなくなったり、水脈が変わって枯れてしまったら、京都の文化はどうなってしまうだろうか。やってみないと影響のすべては分からないところもあるし、しかし、一度失ったら、文化や自然は二度と同じようには戻らないということをこれまでたくさん観てきました。発展的に変えていければいいですが、破壊だけならばそれは本当に必要なのかよくよく考えなければいけないし、見直しも必要でしょう。京北は山国と言われ、平安京をつくるための御用材や、新天皇即位の礼で使われる高御座や大嘗祭の悠紀殿、主基殿という日本の中でも最も重要な祭りの最も重要な建築物の御用材を代々提供してきた土地で禁裏御料地でした。和気清麻麻呂が祭主を務めた延喜式内、正一位の神社もあります。南北朝時代には光厳天皇が晩年を過ごした寺もつくられ御陵もあります。世界的に水の研究者として有名な今上天皇も40年ほど前に山国を訪れていますが、おそらく水上交通史の研究もされていたのではないでしょうか。それくらい皇室ともゆかりのある土地です。先人がずっと守り育ててきた地の環境や資源が変わってしまう可能性があります。   これから世界中でますます都市化が進み、農村に住んでいた人たちが都市に集中することがさらに加速していく時代になりますが、コロナの影響もあり、そのスピードは以前と比べればゆっくりになるかもしれません。自然との共生を大事にした伝統的な暮らし方ももっと見直されていくと思います。   SDGsと世界中で叫ばれるようになりましたが、もともと日本人は縄文時代から自然と共生して、自然に感謝して、その時に必要な分だけ動植物のいのちをいただきながら家をつくったり食をいただいたり、うまく使いながら、自然に還しながら、家をつくり、都市をつくり、文化を育て、生活をしてきた地域で、しかも約1億2600万人の人口がいて、世界第3位の経済規模でありながら、その自然と共生してきた文明が色濃く残る国だと思っていますが、いつごろからか、その逆をいってしまっているように思えてなりません。   北陸新幹線問題にしても、単純に環境破壊、政治とカネの問題だけと考えるのではなく、日本はもう一度、世界にも誇れる自然と共生してきた歴史があるということを再確認して、その精神性や智慧を大事にして、そこに住まう人々や生きとし生けるものたちの存在を大事に考え、人、自然、地域にとって健康でいい循環が築けるように、これからの開発を考えていかなければならない時にあると思います。それこそ、日本がこれから世界に発信していけること、いかなければいけないことではないでしょうか。     使われている間は命が宿り、使われた後は自然に還る建築のあり方   その可能性について、以下の海外に放送された番組で語っています。 NHK WORLD CORE

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traditional architecture

The ancient sustainable capital

藤原京跡(A.D. 694-710)   それは唐の都をモデルに、飛鳥時代(A.D. 592-710)の末期に造営された本格的な条坊制の巨大都市でした。   白村江の戦い(A.D. 663)で大敗を喫した日本は唐に対等に独立を宣言する必要があり、自らの歴史やアイデンティティを国内外に伝えるために古事記や日本書紀などの歴史書を編纂し、古来からの神道と大陸から導入した仏教という二軸の信仰、唐にならった法律(大宝律令)、時計、戸籍など、天皇を中心とした国の体制を整えていきます。その中の重要なものが巨大な都の造営でした。それまでの時代は、天皇の代が代わるごとに宮殿を移していたので都というものはなく、山間地域の飛鳥という場所もあり、建築物が点在するような形でした。しかし、唐に対抗するには最先端の知識や技術を導入した巨大な都の造営が必要でした。この藤原京は後につくられた平城京、平安京などよりも大きく、古代日本最大の都でした。   しかし、排水の問題や疫病、政治上の問題などが重なり、藤原京は16年でその役目を終え、平城京に遷都されます(A.D. 710)。藤原京の多くの建物は解体され、使える部材は平城京造営のために再利用され、1934年に藤原京の遺構が発見されるまで田畑になり、都は土に還っていました。   平安京は桂川一本で木材や食糧などを山国地域という桂川の上流地域から輸送することができましたが、藤原京造営時にはそれまでに都や寺院の建設などで奈良盆地周辺では、大量の木材が伐採されており、飛鳥周辺には使うことができる木材が枯渇し、今の滋賀県にある田上山から木材が調達され、宇治川、木津川、佐保川、飛鳥川を使い(途中陸送あり)運ばれました。   その都や国づくりには、百済から来た渡来人の知識や技術が大きな役割を果たしました。かつて天皇の内裏や中央政治機関などが置かれた藤井ヶ原という土地には藤が咲き乱れ、百済から来た渡来人が住んでいました。その近くには日本の中で当時最大級の国立寺院である百済寺(後の大官大寺)も建てられました。   大宝律令とこの藤原京が完成したことで、日本はそれまでの「倭」という名を改め、はじめて「日本」と国号を定めました。ここは、日本のはじまりの場所でもあるのです。    

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